最近、違和感を感じるんです
第十二章:恐怖
給湯室で、一人、立ち尽くしたまま、動けなくなった。頭の中が、真っ白になって、何も、考えられなかった。
この数週間、いや、もしかしたら、それよりも、ずっと前から。自分が、眠っている、すぐそばで、誰かが、毎晩のように、あの狭い空間から出てきて、部屋の中を、歩き回っていた。冷蔵庫を開け、勝手に、食事をとっていた。そして、また、何事もなかったかのように、あの暗闇の中へと、戻っていった。
そのことに、今の今まで、まったく、気づかずにいた。天井から聞こえていた、あの物音の正体も、これで、はっきりした。あれは、建材のきしむ音なんかではなく、誰かが、ヤツが、動いている音だ。
昼休みが終わっても、仕事に、まったく集中できなかった。上司に、体調が悪いと伝えて、早退の許可をもらった。会社を出て、電車に揺られている間も、ずっと、体の震えが、止まらなかった。
家に帰る、という選択肢は、もう、頭の中に、なかった。あの部屋に、一人で戻って、夜を過ごすことなど、到底、考えられなかった。
会社から、そのまま、駅前のビジネスホテルに向かった。フロントで、なんとか、平静を装いながら、一泊分の部屋を、予約した。チェックインを済ませ、部屋に入って、ドアを、しっかりと施錠した瞬間、ようやく、少しだけ、息ができるようになった気がした。
ベッドに、崩れ落ちるように、座り込んだ。ここなら、大丈夫。あの部屋とは、もう、関係ない場所。そう、自分に言い聞かせようとした。
でも、ふと、視線が、天井に向いた。
「……この天井裏にも、もしかしたら」
考えた瞬間、全身の毛が、逆立つのが分かった。ばかげてる。ここは、ホテルだ。今日、突然決めて、予約した部屋だ。誰かが、ヤツが、自分の行動を予測して、先回りして、こんな場所に、いるはずがない。
頭では、分かっていた。分かっていたのに、一度浮かんだ考えは、簡単には、消えてくれなかった。壁の向こう、天井の向こう、ドアの向こう。目に入るもの全て、そこからヤツがこちらを見ているような、そんな恐怖に襲われた。
「いや、やめよう。もう、やめよう」
声に出して、自分に、言い聞かせた。声が、思ったより、震えていた。このまま、一人で、疑心暗鬼に沈み込んでいったら、どうにかなってしまいそうだった。誰かと、話したかった。今の状況を、誰かに、聞いてほしかった。
「そうだ。家族に、電話しよう」
震える指で、実家の番号を呼び出した。呼び出し音が、やけに長く感じられた。数コール目で、母親の声が、聞こえた。
「もしもし? どうしたの、」
その、いつも通りの声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが、一気に緩んで、視界が、じわりと、滲んだ。
「あのね……ちょっと、聞いてほしいことがあって」
そこから、これまでの出来事を、できるだけ、落ち着いて話そうとした。でも、話しているうちに、また、声が、震え出した。母親は、途中で口を挟まず、最後まで、黙って、聞いてくれた。
「それは……怖かったね。とにかく、今日は、そのホテルで、ゆっくり休みなさい。明日、ちゃんと、警察にも行くんでしょう? 何かあったら、いつでも、電話してきていいから」
電話を切った後も、しばらくは、心細さが、消えなかった。それでも、誰かと言葉を交わしたことで、さっきまでの、際限のない不安の連鎖からは、少しだけ、抜け出せた気がした。
ベッドに横になり、電気をつけたまま、天井を、もう一度、見上げた。ここには、点検口も、クローゼットもない、ごく普通の、ホテルの天井だった。それでも、朝が来るまで、深く眠ることはできなかった。